外部への執着に縛られていていつも苦しかった思い出



私はこのブログを、国に対する怒りから始めて、怒りを原動力にして更新してきたわけですけど、怒りを持ち続けている間は、いつも自分がしんどかったことを思い出します。

今日、突然悟ったようにこんなツイをしていました。何かが突然自分におりてきたように、完全に気づいてしまった(目覚めてしまった)のです。

ブログタイトルを「いかにも幸せそうな感じのする」ものに変えてみたりとか、いろいろしてみたけれど、結局、自分自身が変わらないと何も変わらないことは、わかっているようでちゃんとわかっていませんでした。

やっと、気づけました。いや、正確にはわかってはいたのです。でも、手放すことができなかった。手放す勇気が持てなかった。執着を。

「政府・国家の在り方に対する憎悪」という執着で自分自身を見えない鎖で縛り付けてがんじがらめにしていたし、だからこそ苦しかった。

感情を持つ人間、怒りを持つこともあるのは当然であるけれど、その怒りをぶつけても一向に変わる気配がないのなら、自分がそこから去って、「怒りの対象」を自分の目の前から消し去ってしまった方が早いし、自身の心身の健康のためにも良いです。

他の方の言葉の受け売りですが、結局のところ、怒りや憎悪は自分の心身も蝕むのです。

私も過去に薄々は気づいてきており、似たようなことはツイッターやブログで書いてきてはいました。

「抗議・デモ」ではなく「断ち切る・降りる・去る」

システム依存からの脱却 個の生存を考える時

これからの日本を見据えての思い サバイバルしていくために
 

今日、まさに見事に突き刺している以下ツイートに遭遇しました。

本当にその通り。私が苦しかった理由の一部がこれだったことを再確認しました。

期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。

甘えることが当然とされている世の中では、多分、被害者でいる方が圧倒的に都合の良いことがあるのだろう。自分の頭で物事を考えるよりも、誰かに決められた道の上を歩く方が、何も考えないで済む、面倒なことは避けることができる、自分の不幸を誰かの責任にすることができる。私は、自分の人生を背負って立っているようなひとが好きだ。彼らは「現実が思うようにならない幼児的な怒り」とは無縁の場所にいる。その代わりに「静かな怒りをキープし続けている」ような印象を受ける。安易な雰囲気に惑わされないためには、愛でもなく、感謝でもなく、静かな怒りが必要になるのかもしれない。

まだ他にもう1つありますが、またまとめることができれば(勇気があれば)、まとめたいです。

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