「おもてなし」は、お母さんに何でもかんでも面倒を見て欲しい人向けサービス

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先回の記事を書いてそこで「おもてなしというのは押し付け」であり息苦しいということを書きました。批判がたくさんくるのかもしれないと思いつつ。

takigawa

「おもてなし」

なぜ、おもてなしという「相手が何でもかんでも手取り足取りやろうとする行為」が美徳とされるのか考えたところ、1つ心あたりがあるのが、

「自分で考えることなく選ぶことなく、何でもかんでも相手主導で面倒を見てもらいたい人」

が、欲してるサービスなんだろうと。

「お母さん」と「子供」

これだ、これ。

「お母さんが何でもかんでも手取り足取り子どもの面倒を見る」ことによく似てるなと。

自分でなーんにもやらなくとも、身の回りの世話を何でもかんでもやってもらわないと気が済まない。

旅館で朝早くにとっとと布団を片付けてしまうのも、過剰にあれこれと聞いてくるのもそう。「お母さんが子供の面倒を見る」行為にそっくり。お母さんが子供の面倒を見るように提供側のペースでことが進んでいってしまう。お客側が子供であるかのよう、未成熟であることが前提とされてしまう。

日本人の多くが「大きな赤ちゃん」と化していて「お母さん」を求めてる。

提供側が「お母さん」となって、あれこれ子供の面倒を見る。

お客側もお客側で、何も考えなくとも「お母さん」がなんでもかんでも面倒を見てくれるように進んでいくことを求めてる。だから何でもかんでも過剰に求めるし、提供側はそれに答えるべく何でもかんでも過剰にやろうとするし、本来はこちらから言えばいいものを、あれこれと過剰に差し出してくる。

「こちらにも自主性があるんだ」「自分で考えてリクエストする権利があるんだ」「こちらも成熟した1人の大人なんだ」ということはすっかり忘れ去られてしまっており、「言わなくても差し出す」という行為が強制される。

だから、「自分で考えなくともやらなくとも相手がすべて手取り足取り面倒を見てくれる」ことを望む人にとって「おもてなし」は最適なサービスなんだと思います。

ところがそういうことを求めてない外国人や、日本人でも私みたいな変わり者にとっては、「おもてなし」は窮屈でうっとおしい押し付けでしかないと感じてしまいます。もちろんそんな日本独自のフォーマットありきのルールは、日本の外の人には通じない。

ここに大きなギャップがあるんだろうと思ってます。

そっか、「おもてなし」とは未成熟な国民向けを想定された、日本でしか通じないサービスなんだと。

定型にはまっていない自由なちょっとした「心遣い」であるならば嬉しいけれど、「おもてなし」は始めから「型」ありきの、おもてなしという前提ありきの、「お母さんサービス」。

相手に悪気がなく親切で言ってるということはわかるんです。

温泉で、化学物質アレルギーの気が少しあって肌が少し荒れてたからあえてボディソープを使ってなかった状況で、隣の年配女性が「あら忘れたのね、これ使ってね。遠慮はいらないから、遠慮しなくていいのよ」とどんどん押してきます。

親切のつもりなのは理解できても、押しがあまりに強くて「ソープを使わずに風呂に入るな」と言われてるかのようでした。これも「おもてなし」の類の1つだろうけど、「あー、日本式のお母さんが手取り足取り世話を焼く様子だな」と。

ちなみに私自身は「お母さん」にあれこれ何でもかんでも面倒を見てもらったような記憶がないんです。自分で判断・決断することが多く必要だったし、前記事に書いたけれど中学の時にすでにバイトで働き、高校生の時には自分で計画して遠方への県外旅行を決行。

そういう風だったので、昔から自主性がないことを善とする日本の社会風潮や教育に違和感を感じてました。欧州でも子供の頃から自分を持つ教育をされると聞いてますし、オランダの16歳の子がヨットで世界一周してニュースになったりしました。

初めてのオーストラリア生活でも「自分はどうしたいのか」が求められたし、むしろ海外に出て住んでそういう感覚を知った時に、やっと自分の居場所に辿りつけた気がしました。

大人ならなおのこと自分のことは自分で決められるので、望んでもいないことを先回りしてあれこれとされるのは苦痛でしかありませんでした。これが「日本の良さ」などと海外に発信されると、違和感と心地の悪さしか感じないわけです。

が、「日本国民が全体的に大きな赤ちゃんで、お母さんが何でもかんでもあれこれ手取り足取り先回りしてやってくれることを求めてる」と考えれば、「おもてなし」という窮屈がなぜ日本で受け入れられているのかが納得できた気がしました。

「おもてなし」礼賛は日本人の思い上がりだ〜観光立国を名乗る前にやるべきこと

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