日本人は実は自発的に隷従することを望んでいる

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タイトルは、東日本大震災/原発事故の後4年かけて私がしみじみと感じたことです。

前回記事とも少し関連しますが、見てきて思ったのは、日本人の多くの人は、奴隷待遇に怒っていながらも、隷従され、支配され続けることを望んでいるんだなと。

教えていただいて知ったのですが、私と同じ考えを持っている方のサイト/ブログがあります。美味しんぼ鼻血問題で旋風が巻き起こった、雁屋哲さんのサイト/ブログです。

私も過去オーストラリアに住んでおり、雁屋さんもオーストラリア在住。こういう視点は、海外に長く住むでもしないと気づかないのかもしれない・・・とも思えた次第です。

もちろん海外に長くとも気づかない人は気づかないし、日本にいても気づく人もいるわけですが、日本という国を客観的に俯瞰できる力は、日本日本での通常の生活から大きく一歩を引いた、まったく異なる環境で身につくことが多いのを思います。

雁屋さんはそこで、目の覚めるような素晴らしい本に出会ったとしています。それは、「自発的隷従論」という本で、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)によって書かれたものです。これ本当にその通りだと思った要約部分を抜粋します。

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自発的隷従論

ラ・ボエシの言う事を要約すると、

「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」

と言う事になる。

「支配されたがっている」

とでも言い換えようか。

それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。

支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。

このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。

ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。

「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。

日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。

というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。

日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。

他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。

大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。

読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。

火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。

(中略)

この自発的隷従から自由になるためにはどうすれば良いか。

「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。」

問題は次の二つだ。

「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」
「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」

この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。

確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。

その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。

だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ

本当に、考えがほとんど一致していて驚きました。私は以前からブログやツイッターで、

「為政者が腐っててあり得ないのは当然の前提として、国民の側もそれを嫌だと言いながら、自分で簡単にできる拒否行為をしない」

「政府は国民の鏡、隷従を止めずに依存し続けるこの国民あってこそ、この政府」

「なぜ、ずっとNHKの文句を言い続けてるのに、見ることを止めないんだろう?」

ということを書いたりして感じ続けてきました。ずっと見てきて痛感したことです。

国民の側が、自らが変わり、行動を変え、人生を変えれば、支配側が横暴をすることはできなくなります。多くがそれを自覚した上で「お金という餌」を断ち切れば、政府の横暴は止まります。政府側が「このままではまずい」と思うところまで実行すれば。

過去記事にも関連する内容を書きました。

これからの日本を見据えての思い サバイバルしていくために
外部他者依存から脱却、自分依存の生き方へ
システム依存からの脱却 個の生存を考える時
「抗議・デモ」ではなく「断ち切る・降りる・去る」
何にお金を使うか・払うか」考える:お金を使った実力行使

しかし、大半の人々は「自分の生活を変える」「自分の人生を変える」ことは実践しません。政府に「変えろ」と怒ることはすれど、自分は変わらない。

自分と生活を変えてシステムから降りれば悪政など淘汰されるのに、自分が変わらないと政治が変わることなどあり得ないのに、支配側が敷いたシステムから降りるどころか、文句だけは言うが、システムにしがみついたまま。そんな人が多い現実。

システムにしがみつくことを手放したくないのだなと思っていたけれど、今ではむしろ、「自ら望んでしがみついていたい」=「自ら望んで支配されたい・隷従したい」という風に見えるのです。そんな時に、この雁屋哲さんのポストを教えていただいたのです。

「他人に決めてもらうことが好き・他人に決めてもらうことを欲する」そういう国民性なのだろうと思います。

 

隷従を拒否すると、隷従拒否を望まない「奴隷」から攻撃される

これもドンピシャです。

隷従を拒否しようとすると、まず隷従している人間から攻撃を受けるのだ。

私自身も、何度か逆ギレされています。しかし、なぜ逆ギレするのかという心理をたどっていくと、それはその本人にとって図星に他ならないからなんすね。その上で、「あんたに言われたくない」という反発が起きる。往々にして、人格攻撃に走る。

でも、ちょっと待って。

何を言われようと、自分が「それに当てはまる当事者」という意識でないのならば、逆ギレするという現象になどなりません。興味ないことに対して怒ったりしないのと同じ。

隷従している現実などを発信すると、逆ギレしてこちらに攻撃をしてくる人々は、どうも「自分が隷従している」と心当たりがあるらしい人々のようです。その人のことなど言ってないのに、なぜ逆ギレするのか、こちらは解せないばかりです。

雁屋さんのサイトにもあるよう、隷従することは「楽」「安心」なんですよね。そして気がつかない形で、気づかない場面で、小さなこと小さなこと単位で隷従させられるシステム。

だから、隷従から外れる存在=自分が安心することを否定する存在は許せない。晒す、叩く、排除する、傷めつける。皆が支持するものを支持しないと、非国民扱い。

汚染食材が出荷された際に「風評被害」となじったり(自由購入の選択・権利があるのに)、「食べて応援」しない人は非国民のような扱いをされた、ということもありましたね。

隷従を人にも強いることで、自分が安心する。

本来は各人に自由選択権があるのに、そこから完全に目をそらされ、忘れるよう仕向けられています。隷従してるからこそ、すべての発言が「受け身」「他者任せ」だったりする。求める矛先も、「他人」「外部」だったり。

「〜して欲しい」
「◯◯(他人)は◯◯すべきだ」
「〜になればいいのに」
「皆そうなんだから仕方ない」
「皆やってるから」

発言や思想に、「自分軸」「自分はどうしたい」というものが欠けてるんですね。。

大半の人にとっては、他者外部に追従する隷従こそが安心という価値観なのでしょう。

前回記事にも書きましたが、自分が何もしないためには、隷従していられるためには、何でもするのだろうと思います。


 

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